こんにちは。
スピリチュアルカウンセラーの冥賀都子(エマ)です。
先日はお店の裏庭にあるお稲荷様のお社を新しくしました。
昨年、老朽化によって(30年経ちました)お社が強風の日に風で倒れてしまって、それと同じタイミングで実家のお社も老朽化で壊れ始めたので、新しいものに替えたいと父が話していたのです。
お天気にも恵まれ、無事に神様引っ越し完了となりました。
神主さんにも2回分(場所も変えて、セッティングも)長い時間、祝詞をあげていただきました。心より感謝です。
神様の引っ越し、私は初体験で、とても貴重な体験をさせていただきました。いつかそのことも詳しく書きますね。
さて、今日もご質問への回答です。
エマさんこんにちは。
先日ブログで「神様に呼ばれる」記事がありましたが、仏様が呼ぶことはあるのでしょうか?
今月に入ってから同じ寺院の名前を、友人やテレビなどから度々耳にするので気になっています。(ペンネーム masamiさん)
このことに関しまして、私が認識している答えは「YES」です。
仏様も神様ですので、呼んでくださいます。
あと、ご先祖様もお墓参りに来て欲しい時も呼ばれることもありますし、ただ、気をつけないといけないのは目に見えない存在は良い存在だけでなく、ダークな存在も呼びます。
(記事の最後に参考記事掲載しました※※)
「神様とは?」につきましては、以前から書きたいなと思っていることがありました。
今回はいただいたご質問からさらに一歩進んで、そもそも「神様とは何?」ということについて私の考えている神様像について書いてみたいと思います。
「神様」といってもいろんな「神様」がいらっしゃいます。
神社の神様、山の神様、水の自然霊(これもある意味、神様)、仏様・・・。日本では古来よりアミニズム信仰が根付いており自然の中に神が宿る、という「自然崇拝」の考え方がありますので、モノを大切に扱ったり、トイレを綺麗に使ったりしますね。「トイレの神様は口で掃除をする」と子供の頃に親から教えられた方もいらっしゃるかもしれません(私はそうでした)。八百万の神、という言葉も日本古来からのアミニズム信仰の考えです。
それから、仏様が中国より渡来したのが538年、飛鳥時代ですね(ほっとけごみやさん、で覚えましたね( ´∀` )。
神社の神様に関しましては、もっと古くて日本民族はアミニズムなどを起源とする信仰が根付いているので、縄文時代、いやもっと古く、文献さえも残っていないものもあります。隠された神様として、近年は瀬織津姫(せおりつひめ)の名前も知られるようになりました。
神仏習合といって、仏教も神道も一緒になって部分的にかぶっていたりして10世紀ごろ(平安時代)から明治維新まで、ごっちゃになっていました。
ですので、先日訪れました戸隠神社も5社あるうちの「火之御子社(ひのみこしゃ」以外の4社はもともとお寺としての建築様式が残っています。(屋根にアンテナみたいのが立っているのが神社様式です。V字のあれです。)
もう少し歴史的な話をしますと、
明治の時代になって、1868年(明治元年)に政府が「神仏分離令」というものを発令し、正式に「神道」を「国教」としました。それによって、江戸時代にはお寺だったところを神社が管理をしたり、神職は国家公務員とされるなど、仏教は弾圧され、仏像が破壊されることもあり大変な時代がありました。明治22年に「宗教を自由とする」大日本帝国憲法が発令されるまで仏教は弾圧されたのです。
結局のところ、「神様」は政治のためのプロパガンダとして利用されてしまうことが歴史的にも多く、裏を返せば人々の信仰心そのものの自由を奪うことで政治を行いやすくするということです。マスを操ることで民衆の行動をコントロールする、というのはいつの時代も同じです。
と、ここまで長々と書きましたが、
スピリチュアル的な視点での「神様」とはその人が信じているそのもの、そのこと、その現象、実態のないものも含めて、その人がそれを「神様」と思うならばなんでも「神様」だと私は思います。
ですので、私がスピリチュアルメッセージを上からおろす時のメッセージを伝えてくれる「主」も、その時々で違います。
風の精霊からのメッセージの時もあれば、大日如来さまのメッセージの時もあれば、グレートセントラルサンからのメッセージの時もあれば、ご先祖様からのメッセージの時もあります(ご先祖様からは個人的な内容のメッセージ)。※霊視をして特定の相手へのメッセンジャーからの言葉を受け取るのはまた別の技術なのでここでは触れません。(例えば、お客様についている守護霊からのメッセージなど)
この世はその人が見たいと思うように「見える」という、そういうことになっています。
仏教ではそれを『色即是空(しきそくぜくう)』といいます。
「色、すなわちそれは空(くう)である」つまり、「色なんてないよ、自分が勝手にそう見ている(色をつけている)だけだよ」と。
実際に「私はキリストからメッセージを受け取った」という人もいれば「私はお釈迦様からメッセージを受け取った」という人もいて、メッセージの内容自体は実は同じものだったと、ということもよくあることです。
スピリチュアルな研究をしていると、必ず、1つの真理にたどり着きます。
それは
言っていることは皆、同じ
だということです。
大切なことは言い方や表現の仕方が違うだけで、結局は一つの真理にたどり着きます。
ただ、それを伝えるのには、相手にとってわかりやすい方法でなければなりません。
言葉のない時代は(言葉はあっても識字率が低い時代、字を読める人が少ない時代)それを絵にして伝えました。
ヨーロッパの壁画や教会の絵は、キリストの物語だったりします。
絵で伝えているのです。
その人が見たいと思うように「見える」ということについての逸話は、有名なところではフランス革命で活躍した聖女「ジャンヌダルク」です。
彼女はある日突然キリストに導かれて(と彼女の言葉で語っています)、王様に会いに行きます。そしてフランス革命では軍を率いてイギリス軍に勝利をおさめます。しかし、いろいろあって結局は火あぶりの刑に処せられますが、彼女が本当にキリストに導かれたかどうかは実際に裁判にかけられ、精神障害者としての疑いもかけられます。ただ、本人がそうだと言う以上、それを違うとする証拠もなかったわけです。
つまりは、「神様」のほうもその人にとって一番わかりやすい姿で現れるため、その人が見たいように見た「神様」が目の前に現れたり、メッセージを伝えたりしてきてくれると思われます。
ただ、「見たいように見える」とそういう表現をしてしまうと、では全部妄想なのでは?ということになりかねませんが、私の体験では自分の頭の中にない「言葉」を伝えてきてくれることもあり、調べてみたら、実在する場所や人であった、ということがあったので、自分だけのエネルギーでそうなっているとは思えません。
実際に石をリーディングしていると、お客様しか知り得ない情報を伝えてくることもあり、カウンセリングでは「なぜ、知っているの?」と驚かれることもしばしばです。
「神様」から受け取るメッセージにおいては、
無意識かもしれませんが自分が見たいような姿や受け取りやすいメッセージがいいと願う気持ちと何かを伝えようとする「神様」のエネルギーによるところが大きいことと、受け取る側の価値観によっても「何を見るか」「どう捉えるか」の解釈は違ってくると思います。知識の差も影響するかもしれません。
ですから、その人が「呼ばれた」と感じる、しかも何回もその言葉を聞いたり、同じキーワードを見たりするというのは、まさにその人にとって一番わかりやすい形でメッセージ伝えてきてくれているということだと思うのです。
空を見て、雲の形からメッセージを受け取る方もいらっしゃれば、神社で出逢った蝶からメッセージを受け取る方もいらっしゃるでしょう。
天使が好きな方もいらっしゃれば、古代遺跡に心惹かれる方もいらっしゃるでしょう。
ピラミッドのことが気になって仕方ないという方もメキシコのティオティワカン遺跡が気になるかたもいらっしゃるかもしれません。
いやいや、イギリスのグラストンベリーでしょ、という方もきっといらっしゃると思います。
前世も関係しているかもしれませんし、これから大きな転機が待っていて呼ばれているかもしれません。
ご質問者のmasamiさんの場合は、今まさにmasamiさんの脳裏に浮かぶ仏様の姿のほうがmasamiさんにとって一番ピンとくる姿で、「あれ?呼ばれている?」と今すでに気になりだしたということです。
きっと、その姿でないとmasamiさんが行動しないであろうから、その姿でメッセージを送ってきていて、だからこそ、こうして私に質問をしてきてくださっていると思います。
また、masamiさん自身も無意識にその仏様との繋がりを望んでいる場合もあります。
それはmasamiさんが未来を無意識に予知して、今後その仏様の考えが必要になるから、ということも考えられます。そして、まずは行ってみないと(その仏様にお会いしてみないと)なんとも言えませんが、頻繁に出てくる、気になる、そして行けるタイミングが来る、あるいはタイミングを作る気持ちになる、という流れでご縁というものは結ばれていきます。
ちなみに神道の神様は日常生活で生じる苦悩をより良くするために広まった神様です。日照りが続けば農作物が育たないので雨ごいをして水の神様にお願いするなどしました。
仏教の神様(仏様)はあの世に焦点を当て、いずれこの世を去る、ということがあるからこそ、今をどう生きるか、今世での穢れや罪とどう向き合うか、ということで広まった神様です。(極楽浄土へ行きたい、地獄は避けたい)
神道の神様の伝説は、仏教の神様と違って、どこか親近感の湧く神様も多く、恋愛でも自由奔放でくっついたり離れたり、人間より人間らしい神様模様です。浮気をしたり、子供もたくさんいたりして、しっちゃかめっちゃかです。
そして、神道も仏教もどの神様が偉いとか一番だとかいうのはなく(神様界での階級はあっても)、私達が自分で好きな「神様」を自分の中で信じるのが一番だと思っています。どの神様を信じないといけないとか、あっちはダメだとか、そういう考えは苦しいと思いますし、人間は成長するにつれて好きな神様も変わってくると思います。知識が増えることで、興味が湧く神様もいると思います。神様が気になって会いに行くのも素敵なことです。
そして、人間は「死」を身近に感じることで「今」をより良く生きられます。亡くなった大切な人を思うことや、ペットの死をきっかけに仏様の世界を知るということは非常に意味のあることだと思っています。
何よりも、人との出会いと同じように自分の人生をより良くするための「神様」との出逢いであり、それが信仰の在り方なのだと思います。
神道、仏教に限らず、好きな「神様」が同時にたくさんいても、まったく問題ないと思います。
全ては自由ですし、真理は結局のところ一つだからです(繰り返しになりますが)。
以前、私は石には神様が宿ることができる、と書きました。
石は神様と繋がるツールでもあると思っています。石が好きな人にとっては、石を自分の人生をより良くするため癒しの存在としてそばに置くことや、自分が「神様」の声を聴きとりやすくするための道具として使うことも、先ほど話したように自分にとって一番わかりやすい「気づき」の方法のひとつなのだと思います。(何かが宿ることはあっても石そのものは「神様」ではなく、石は石だと認識しています)
最後になりますが、
見えないものの中に潜む「真実との出逢い」が多い人ほど、人生を自分らしく柔軟に、軽やかに生きていけるような気がしています。
苦しくて怖いスピリチュアルではなく、楽しくて役に立つスピリチュアルな世界をこれからも伝えていきたいと思っております。
Masamiさん、ご質問をどうもありがとうございました。
これを読んでくださった皆様も最後までお付き合いくださいまして、どうもありがとうございました。
※次回は「魂の約束」について書いてみます。
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ダークな存在ついては以前の記事を参考にしてみてくださいね。
基本的には「乱暴な言葉」を使います。「神様」のふりをすることもありますから、違和感に気をつけましょう。