こんにちは。
スピリチュアルカウンセラーの冥賀都子(エマ)です。
ミネラルショーでの石の買い付けも終わり、そのあとザルツブルグにある「ミラベル庭園」でアチューメントをしてきました。(前回までの記事)
今回のブログはミュンヘン市内にある「宮廷庭園(ホーフガルテン)」に石達のアチューメントに行った際に偶然気づいたこと、過去世ついて書いてみますね。
ちょっと個人的な話になってしまうので、書こうか迷ったのですが、何か皆さんの参考になればと思い、書いてみます。
よろしければ、読んでみてくださいね。
前日、ミネラルショーからザルツブルグ(オーストリア)までを日帰りで朝から動きまくったので次の日はゆっくりミュンヘンの街中を歩きながら「宮廷庭園」まで行こうと計画を立てていました。
ミュンヘンはバイエルン地方にあり、近代ではヒトラーの影響下にあったため、戦争が終わってから関連施設はだいぶ取り壊されて再建築された建物も多いと聞きました。
歴史に翻弄されたミュンヘンの街ですが、歴史的な建造物や教会は市民の手によって少しずつ再建されました。そして今も大切にされ、笑顔が溢れ、世界中から訪れている多くの人で賑わっていました。
(マリエン広場、建物は市庁舎です)
もうすぐ帰国、ということもあり、買い付けた石達を整理しながら振り返ると今回訪れたミュンヘンのミネラルショーはまさに鉱物の祭典、という印象で結晶そのものの美しさをどう展示するか、という主催者の熱意が感じられる展示会でした。
それはアメリカやフランスでのミネラルショーとちょっと一線を画すような印象です。そもそも会場が屋外では一切ない、というのもあるかもしれません。
その力の入れようもそのはず、実はミュンヘンに拠点を構える、1976年刊行の世界で最も有名な月刊鉱物誌はショーのファウンダーの一人でもありますオーナーのChristian Weise氏が手掛けているものだそうです。会場の一角にたくさんの美しい鉱物図鑑、書籍がずらーっと並べてありました。
ちょっと他のミネラルショーとの違いをまとめてみると・・・(2023~2024年訪れたミネラルショーでの私の感想)
・アメリカ ツーソンショー(屋外、屋内)巨大な展示会場以外はこぢんまりとした屋外の会場が街中に散らばっていて車で移動せざるを得ないくらい広範囲。トラックで搬入した巨大な鉱物もたくさんあります。
・フランス サンマリーショー(屋外、屋内)ほとんど屋外です。足場は悪くないのでキャリーケースで見て回れるくらいのエリア。巨大な鉱物もありますが、全体的にはキャリーケースで運べるくらいの大きさが多い印象。
・ドイツ ミュンヘンショー(完全屋内)会場はセキュリティチェックがあり、会場内にATMも設置されていていろんな意味で厳戒な印象。キャリーケースで回れるがサンマリーショーより広い。ジュエリー含め、小さめの鉱物が多い印象。
・アメリカ デンバーショー (屋外、屋内)こちら規模は世界4位のミネラルショー。ツーソン同様、デンバーの街の中、会場は4か所くらいに点在しています。市バスで移動可能。ただ、会場から会場は歩いては行けないので、全部の会場を一日で回るのはキツイかったです。巨大な鉱物から小さめ鉱物までありますが、ジュエリー系は少な目でした。
・<番外>タイ バンコク (屋内)バンコクは世界一の宝石集散地。ルースを探す時にはここがベストだと思います。鉱物系ありますが、目利きでないとちょっと難しい買い付けになる印象(ひとつの鉱物を扱う専門店ではないことがほとんどなので、ある程度石の名前や特徴を知っていること前提でないと話が進みません。基本的に一般の顧客相手ではないので専門用語ばかりです)。
そんな歴史あるミュンヘンショーで出逢った子達をミュンヘンのパワースポットでアチューメントしたいと、この日を楽しみにしていました。
ホテルを出てから10分ほど歩くと、玉ねぎのような尖塔が2つある教会にたどり着きました。
こちらはフラウエン教会です。
いよいよ今日のブログの本題の話です。教会の中に入って見学していた時のことです。
初めは「綺麗だなぁ」と思って見ていたのですが、気づいたら涙で頬が濡れていました。ハンカチで涙を拭い、気のせいだろうと思って外にでて、動画を回しながらしゃべり出すと、今度は鼻声になっています。(さすがにこれは、ということでシェアはしませんでした)
教会から広場へ抜ける石畳をゆっくり歩きながら、冷静に考えてみました。
6月にフランスで開催されたミネラルショーの帰りに修道院を改築したウンターリンデン美術館を訪れた際は回廊で鳥肌がたって仕方なかったのですが、やはり、こういった意図せずに身体が勝手に反応するのは、どう考えても「魂の記憶」によるものと私はその時思いました。理不尽な身体の反応です。(ちなみセドナなど聖地を訪れた際に身体が軽く感じる、というのとはまた別のものです。)
私自身、キリスト教徒でもないですし、生まれ育った家はごく普通に近所にあるお寺さんの檀家になっている家庭に生まれました。むしろ「般若心経」で育ちましたし(霊的な力の家系というのもあり、魔除けの意味も込めて我が家では「般若心経」は空で唱えられるほど身近なものでした)、学校で習って初めて「キリスト教って、そういうことか!」と知ることがほとんどでした。
ただ、あまりそれ以上の歴史については知りたくないような、なんとなく遠ざけているような感覚がありました。
世界史に苦手意識があったのかもしれませんが、西洋的な占術に関しては8歳の頃に習得していますし、特別に何か嫌な思い出はないのです。
とても不思議だと前から思っていたのですが、さかのぼって思い出されるのはさきほど書いた、「魂の記憶」ではないかという仮説を裏付けるような身体に起こる異変です。
私が初めて感じたその「不思議な」体験は24歳の時に訪れた、バチカン市国での出来事でした。
バチカン市国のサン・ピエトロ大聖堂を訪れた際に、ある像の前で足が動かなくなりました。それはミケランジェロ作のピエタ像の前でした。その時は理解できませんでしたが、今思えば、突然に過去世による魂の震え(魂の記憶)という体験をしました。
(こちらがカトリックの総本山、バチカン市国にありますサン・ピエトロ大聖堂の中に安置されているケランジェロ作の「ピエタ像」です。なにか私と同じように感じる方、いらっしゃるでしょうか?)
何度もブログに書いておりますが、その時はピエタ像の前で涙が滝のように溢れ出しまして、ポタポタと音を立てて大理石の床が濡れるほどでした。号泣というよりは、静かに勝手に、ただただ涙が溢れ出るのでした。
祈るというより、ただ、ボーっと、観光客のひとりとしてそこで見ていただけなのです。
それからもう20年以上、少しずつではありますが過去世を身近に感じる体験を積み重ねました。慎重に、何度も検証しながらではありますが「自分の今世に生まれてきた意味を紐解く」、ということを自分の体験を通じて今もなおしている最中です。
少し話が逸れますが、これは「人生において進むべき道は自分で気づいていく」ということが重要である、という仮説のようなものが私の占いや霊視鑑定の軸にあり、それを立証したいがための実験でもあります。
と言いますのも、霊視鑑定の際に視えたことを伝えるのを上から止められることがよくあるからです。
(※現在、カウンセリングは中止しております)
個人的には特に過去世や未来予知は「必要な時期に必要なタイミングで気づくもの」と感じていて、理由は「その人にとってベストな時期が来ないとその時に答えを知っても意味がわからないばかりか、今に生かせない」のだろうという気がしているからです。(というよりも、カウンセリングの際に「今は必要がないから伝えなくていい」と上からメッセージが降りてくることもあったからです)
占いや霊視が無意味なもの、ということではありません。
悩みがある時にお客様が自分でできる「セルフカウンセリング」というものが五感を通してできれば、それがベストだと思っています。(必要があれば、その人の霊能力の開発に繋がるかもしれません)
私自身、過去に二回ほどセドナで霊視していただいたことがあり、当たっていることの過去と未来の時間軸がずれていました。
このことは、私のお客様の鑑定でも同じことが起きていて、私が「こうなる映像が見えます」とお客様にお伝えしたことが一週間後のこともあれば、私自身がそういう鑑定をしたことすら忘れるほどだいぶ先の未来を視ていた(1年後、とか)ことがあるからです。(2年後にお客様がお店にいらして、「エマさんの言う通りになりました」と報告しにわざわざ来てくださった方もいらっしゃいます。)
「それはまさに昨日の出来事です」というのもありました。
ですので、この「いつ」というのが特定できずにいるという鑑定結果は私にとって課題だと思っていて、そこがなぜクリアにできないのだろうと長年、考えてきました。(セドナでの体験を通じて、これは私だけではなく、他の霊能者もそうなのだということもわかりました)
考えても答えが出ないので、自分の感覚と体験を通じてその答えを探っていくしかないのですが、その時期がわかりさえすれば過去世だけでなく未来の天災さえも予知できて世の中の役に立つと思うのです。
おそらく、多くの霊的な力を持つ方は同じ課題をもっておられるように感じます。
昔、「テレビの力」というテレビ番組がありました。行方不明なった人を霊能者が捜索する、霊視して犯人を見つけだす、というのをやっておりました。「出来事」と「時間軸」が一致しないことで捜査が頓挫したり、打ち切りになったりと、番組の企画としては非常に興味を引くものであったのですが、実際に問題解決に至らないということも多く、霊視鑑定の脆弱な部分がかえって混乱を招くような場面もあったと思います。
私自身、実際、東日本大震災の時は何年か前から津波の映像は夢で見ていましたが、いつのどこなのか(国や地域)特定できないどころか、過去世なのではないか、単に個人的な心理が影響している夢なのか判断がつかなかったからです。(その頃はまだ再覚醒したばかりのころ)
ですので、過去や未来といった「時間軸が関わること」に関してはずいぶんと難易度の高い霊視なのだと思っています。
見えない世界におけるさらに実態のない見えない時間、空間、というのは何枚も薄いカーテンがかけられているかのように、曖昧で、例えばそこに人物の影が見えても、その人物は影絵のように2枚目のカーテンに後ろにいるのか、5枚目のカーテンの後ろにいるのか、といったようなことです。(カーテンを時間軸として例えるならば)
ここでは過去世を見てもらってはいけない、教えてもらってはいけない、見てはいけない、という話をしているわけでありません。
おそらく誰もが常識的に「当たるも八卦当たらぬも八卦」というのが占いにはあるということを知っているはずですが、占う側、霊視する側の人間としてはもっと技術や視る力を上げたいと思って日々、努力していると思います。
長く書いてしまいましたが、
そういう理由もあり、あえて五感を使って感じるままにする、第一印象を大切にするということを意識して、事前にあまり知識を入れないようにして目的地を訪れることも必要なことではないか、と考えています。
ですので、もし、過去世などに興味のある方は一度試しに事前情報は得ずに、教会や神社仏閣でその場で目に入った言葉やキーワード、あるいは何かのシンボルが自分の胸にどう響いてくるかを感じてみるのをおすすめします。
何かを思い出すきっかけになるかもしれません。
今回、私もミネラルショーに関することはよく調べてからいきましたが(場所など)、市内の歴史的な建造物に関しては、ホテルについてからフロント横にあるリーフレットを手に取って読んだのが初めてくらいでした。
(アチューメントは庭園でする、というのだけは決めていましたが、それも実際に行ってみて「気」が良くなければやめようと思っていました。アチューメントの際はいつも一度、下見をしています。もしくはは過去に行ったことのある場所で「気」が良かった場所です。)
そんな感じで街の中心部でありますマリエン広場近くの教会をいくつか巡っている間に偶然にも少しだけ過去の記憶を思い出したのです。
(庭園はもう少し先にあり、実際、まさかここで自分の過去世が思い出すなどとは思っていなかったのも事実です。)
思い出した過去世はこうでした。
時代はやはり中世でしょうか。私はとても敬虔なキリスト教徒だったようですが、どうやら「何か」を持っていたために「魔女」ということにされたようです。その「何か」までははっきりとは見えませんでした。「石」だったのかもしれません。
それでとても辛かった感情が沸き上がって、教会の中で一目をはばからず涙がこぼれ落ちました。
いたたまれなくなって教会を出ると、そこには青い空が広がっていました。金色に色づいた街路樹が黄金色に輝き、今ここにいる、という現実に急に引き戻されて我に返りました。
「今、この時代では日本に生まれている、さっき見えたのは過去のこと」
こうして少しずつ、過去世を思い出すのにも意味があるのだろうと思います。
(マリエン広場にある琥珀屋さん)
私は今ここにいることに安堵すると足取りも軽くなり、かつての宮殿だった場所に隣接された美しい庭園にいざなわれるかのように辿り着きました。
庭園は日本では江戸時代、1613年から1617年にかけて造園されました。バイエルン選帝侯マクシミリアン1世の命によりイタリア様式のルネサンス庭園として計画され、バイエルン王宮の付属庭園でした。<宮廷庭園について Wikipediaより一部引用>
庭園の中心には、ディアナ園亭と呼ばれるルネサンス様式の小さな円形の東屋があります。
園亭の名は、ローマ神話における月の女神ディアナから名づけられたそうで、そのグリーン色の屋根の下では誰かがバイオリンを奏でています。優雅な音色と共に穏やかな時間が流れていました。
そして午後のやわらかな陽だまりの中で、その音色を聞きながらゆったりと石達と過ごすことができました。
(「何してるの?」と言わんばかりにテントウムシが飛んできました)